根津駅裏の細道で「本格珈琲」を世に問い始めた「本格こーひー 大吾」の内田様より、焙煎器からこぼれだしたばかりかのようなアツアツで香り高いお便りを頂戴いたしました。
だい吾便り② ~くりかえし、くりかえす、らせんのように~
「焙煎」…原材料である生の豆に火を入れることで、今日、私達が親しんでいる珈琲に変化させる作業のこと。珈琲の味は、かなりの部分が焙煎によって決まってしまうと思われる。
こんなことを思いました。
珈琲を仕事にさせていただいてから、焙煎という仕事を任されるようになってから、珈琲と泥まみれになる日々が始まりました。
教えを請う師や、教本といった類のもの(今では不用のものと思う)もなく、どうしたら美味しくなるのかと考える毎日。焼き上がった珈琲豆を珈琲にし、味、香りの良否を考える。何もかもが分からないことだらけの中、はっきりとしていたのは、自分の作る珈琲が美味しくないという一点のみ。
疑問が解決しないまま、次の焙煎が追ってくる。また、焼く。分からない。どうにかして、次こそは! 次こそは! と思いを強くしていく。
そんな日々を過ごしていくうちに、だんだんと少しずつ珈琲のことがわかりかけてきます(未だ、その途上にいるに過ぎないのです)。そうして、少しずつ珈琲の進歩があり、無上の喜びを感じ、つかの間、浮かれていると、また新たな壁にぶつかり、悩み始めます。
その延々のくりかえしの中を生きていくうちに、ふと気づきます。今、悩んでいることは、以前にも悩んでいた点であるということです。
同じような箇所で悩んでこそはいるが、以前の自分と比べると、はるかに見回せる景色が広がっている。
どうにかして次こそは! という前へ進む気持ち、意思さえあれば、くりかえしの円は、右か左か、前か後ろか、方向は分からないけれども、とにかくどこかへと向かうらせんになるのではないかという思い。その意志さえ持ち続ければ最終的には、きっと、どこかへ巡り着けるという実感。
そんなことを思うとき、珈琲に対して、自分が今、珈琲を仕事にしていられることへの感謝と喜びを感じます。珈琲は、まだまだ続いてゆきます。
今回は、こちらで失礼致します。
5月吉日
内田大吾