珈琲づくりにおける成功と失敗? 一体どういうことなのでしょうか? 珈琲への想い。内田氏ならではのお便りをお寄せいただきました。
だい吾便り③ ~「失敗」とは? 「成功」とは?~
珈琲に対して珈琲屋が手出しできる領域には「焙煎」と「抽出」の二つがあるが、「抽出」は字の如くある状態のものを、損なうことなく引き出すことで、余程のことがなければ失敗は起きないのではないかと思う(特別な状況においては、その限りではないことも認める)。
そのため、ここでは、特に「焙煎」という点に絞って「失敗」とは? と考えることにする。
「ダンパー」……実際に豆が熱される部分である釜内部の空気を、ダクトを通じて外へ逃がす際に通る、開閉可能な弁のようなもの。
この開閉が、珈琲屋の焙煎においての悩みの種の一つと思われる。
こんなことを思いました。
ある御方が珈琲の、焙煎の「失敗」とは一体何でしょうかと、お尋ねになりました。確かに、「焙煎」という工程は、毎回決まった流れを辿ります。生豆に熱が入り、色づいてゆき、最終的には目標の1点になるように冷やし、留めます。焙煎時に行う操作も、大別すると、火力とダンパーの2つのみ。それなのに何を、私は失敗、失敗と悩んでいるのでしょうか。
時折、ふと我に返ると、自分でも可笑しく思います。同じ様な作業を何年も続けて、その作業上の操作も、それほど複雑ではないはずなのに。
何を失敗できるのか? いまさら、どこを失敗できるのか? そもそも「失敗」とは何なのか?
焙煎を始めてすぐの頃、確かにそれは「失敗」と呼べるものがありました。「大失敗」と呼べるものかもしれません。商品として、珈琲の味として、一つの食べ物、飲み物の味覚として、それはコゲていたり(炭のような嫌な苦み、いつまでも舌に残る)、生焼けであったり(青臭い、牧草のような、穀物のような、およそ珈琲らしからぬ味)、味が抜けていたり(珈琲を淹れる際、豆の使用量にかかわらず、味わいの要素の粒それぞれが薄い、スカスカとしているような感覚)していました。
やがて、焙煎というものに少しずつ親しんでいき、そういったものは無くなっていきました。「失敗」は減っていきました。
さらに、時が過ぎていき、本当に少しずつ自らの目指す珈琲が見え始め、一歩ずつ、それに近づいていきました。
最近では、焙煎を行う前に、求める味のイメージを作り、それに適した操作を行い、珈琲を作っていきます。出来上がった珈琲が、イメージに合致しているのか? 焙煎をしてからの日数の経過による味の変化(一つの豆に対し、約一カ月、経過を観ます)が、自分のイメージしたものになっているのか? それらは、珈琲を珈琲としてだけ捉えるのではなく、本能的に美味い! と感じられる代物なのか?
それから外れてしまった珈琲を、私は「失敗」と呼んでいるのかもしれません。
そのようなことを、自身の珈琲に問うていると、段々と「失敗」が起きなくなります。つまり、焙煎を行う前からある程度、出来上がる味の予想が出来てしまいます。丁度、出だしの三行を読んで、大方の筋が読めてしまう小説のように。
そこに感動はありません。一つの、予定調和の如き、味の展開が広がるのみです(その味が美味しければ、問題ないと、頭ではそう分かっているのですが…)。
そこに恐ろしい珈琲は、ありません。
その行き詰まりから脱するためには「失敗」が必要になってきます。イメージを作り、それに合った操作を行い、自身の持てる全てを懸けて、これだ! と言える珈琲を作り、その中から「失敗」を感じ、それをどう乗り越えていくか、知恵を絞ります。
自分なりに、試行錯誤を続けていくと、珈琲は必ず答えてくれます。「失敗」をしなければ「成功」は掴めず、「成功」に留まっていると「失敗」は出来ません。「失敗」が掴めれば、後はそれを成功に変えるだけです。「失敗」を感じる、受け止める勇気、喜びが肝心と思います。
日頃より、失敗、失敗と申していますが、内心秘かに、珈琲が前に進んでいっている! と嬉しく思っています。最も、改善点が浮かばず、苦しんでいたりすることも多々あります。まだまだ、私の珈琲は前へ進んでいけると感じています。
今回はこちらで失礼いたします。
7月吉日
内田大吾