【寄稿】だい吾便り④ ~イメージを信じる~

12月の朝、不忍通り

 カウンター越しに配されたコーヒーを一口。

 このところの「だい吾」のコーヒーは、開店当初とはだいぶ異なる味わいを含むように感じられ、そのことを伺うと内田氏は様々な説明を聞かせてくださいます。

 わかるようなわからないような…

 そうか、わからんでいい。これこそただ「美味い」と瞑目して過ごすべき至福のひと時なのだ、などとわかったような気でおります今日この頃。

 内田氏が今回お寄せ下さったのは、珈琲が「動き出した」迷いの先で信じるものについてのお話し。

 

だい吾便り④ ~イメージを信じる~

 コーヒーを焙煎する「技術」とは何だろう?

 「技術」… 経験から予想される結果の正確さ、精度の高さ。 

 「経験」… 失敗してきた種類、数の多さ。

 こんなことを思いました。

 焙煎をする。味を見る。ある程度の美味しさが確保されていると感じる。

 お客様へお出ししても良いと判断したコーヒーなのだから、これ以上他に考えを入れる余地はない、入れる必要はないと、頭では理解していながらも、さて次はどうする? これは、もっと美味しくならないのか? と考えてしまう時、コーヒーは見知った、既知の、美味しさが確保された領域から動き出します。

 それから、どのように味が動くのか? 動いた先に、さらなる美味しさがあるのか? そもそも、現時点でのコーヒーに対する知見では、動かないことがベストではないのか? 等々、迷いの路は数多く出てきます。

12月は閉店すこし前の17時でも真夜中のよう

 この段階では、そのどれもが正しく、又、正しくはありません。前を向いて歩こうと思った瞬間に、目の前に一本の太い道と、無数の枝分かれしている細い路地が在り、又、唯々、在るのみといった様子。

 そのような時、自身の歩みを助けてくれるものは、イメージすること、信じることではないかと思います。どの道がベストかは分からないが、この先に何か、面白いものがあるような気がする! といった、曖昧な確信、危険な好奇心を信じること。

 イメージが生まれたら、今度は、イメージの周囲にあるものを一つずつ考え、一歩ずつ現実の自分へと近づけていきます。自信とイメージが、一本の道でつながったら、あとは歩くのみです。

 イメージすることと、信じることは、何か非常によく似た状態であると感じます。これら二つのものは、同一のものであるとさえ感じます。丁度、コインの表と裏のように、形態の変化に過ぎないのではないでしょうか。

 イメージは、それ自体ではどこかにある点でしかなく、又、信じることだけでは、どこかにあるはずの点へ進む方向が分からず、そのどちらかが欠けていると、どこへも進めない。そのようなものであると感じます。

 珈琲を通じて、しみじみと感じることは、イメージできたものは、必ず、すべて形にできるということです。人間の、イメージするという行為の強さ、エネルギーには、限りない可能性があると感じます。本来的には、誰もが持っているイメージの可能性を、謙虚に、大胆に信じることでのみ、始まっていくように思います。

 私も、そんな風に珈琲と歩いていこうと思います。

 今回は、こちらで失礼いたします。

12月吉日

内田大吾