カウンター越しに配されたコーヒーを一口。
このところの「だい吾」のコーヒーは、開店当初とはだいぶ異なる味わいを含むように感じられ、そのことを伺うと内田氏は様々な説明を聞かせてくださいます。
わかるようなわからないような…
そうか、わからんでいい。これこそただ「美味い」と瞑目して過ごすべき至福のひと時なのだ、などとわかったような気でおります今日この頃。
内田氏が今回お寄せ下さったのは、珈琲が「動き出した」迷いの先で信じるものについてのお話し。
だい吾便り④ ~イメージを信じる~
コーヒーを焙煎する「技術」とは何だろう?
「技術」… 経験から予想される結果の正確さ、精度の高さ。
「経験」… 失敗してきた種類、数の多さ。
こんなことを思いました。
焙煎をする。味を見る。ある程度の美味しさが確保されていると感じる。
お客様へお出ししても良いと判断したコーヒーなのだから、これ以上他に考えを入れる余地はない、入れる必要はないと、頭では理解していながらも、さて次はどうする? これは、もっと美味しくならないのか? と考えてしまう時、コーヒーは見知った、既知の、美味しさが確保された領域から動き出します。
それから、どのように味が動くのか? 動いた先に、さらなる美味しさがあるのか? そもそも、現時点でのコーヒーに対する知見では、動かないことがベストではないのか? 等々、迷いの路は数多く出てきます。
この段階では、そのどれもが正しく、又、正しくはありません。前を向いて歩こうと思った瞬間に、目の前に一本の太い道と、無数の枝分かれしている細い路地が在り、又、唯々、在るのみといった様子。
そのような時、自身の歩みを助けてくれるものは、イメージすること、信じることではないかと思います。どの道がベストかは分からないが、この先に何か、面白いものがあるような気がする! といった、曖昧な確信、危険な好奇心を信じること。
イメージが生まれたら、今度は、イメージの周囲にあるものを一つずつ考え、一歩ずつ現実の自分へと近づけていきます。自信とイメージが、一本の道でつながったら、あとは歩くのみです。
イメージすることと、信じることは、何か非常によく似た状態であると感じます。これら二つのものは、同一のものであるとさえ感じます。丁度、コインの表と裏のように、形態の変化に過ぎないのではないでしょうか。
イメージは、それ自体ではどこかにある点でしかなく、又、信じることだけでは、どこかにあるはずの点へ進む方向が分からず、そのどちらかが欠けていると、どこへも進めない。そのようなものであると感じます。
珈琲を通じて、しみじみと感じることは、イメージできたものは、必ず、すべて形にできるということです。人間の、イメージするという行為の強さ、エネルギーには、限りない可能性があると感じます。本来的には、誰もが持っているイメージの可能性を、謙虚に、大胆に信じることでのみ、始まっていくように思います。
私も、そんな風に珈琲と歩いていこうと思います。
今回は、こちらで失礼いたします。
12月吉日
内田大吾