第2回 老舗の『中の人』に聞く ~戸田屋商店様より~

 今回で2回目となる「老舗の『中の人』に聞く」シリーズ。

 逸品を手掛ける老舗で働く現役バリバリの皆様は、どのような思いで品物、商売に接しているのか――第2弾の今回は日本橋堀留町の戸田屋商店様より営業課長の宮川様に、ご自身のお仕事のことや戸田屋商店様の魅力、日本橋堀留町への思いについてお聞かせいただきました。

宮川慎一さん:株式会社戸田屋商店 営業課長 1973年日本橋人形町生まれ。デザイン関連の仕事を経て2007年より現職。

「戸田屋は版元のような役割」

――今日はお忙しい中お時間をありがとうございます。まず普段のお仕事について伺いたいんですが、宮川さんは営業や企画の他、WEBのお仕事やデザインをしていたりとお仕事の幅はずいぶん広いですね。

 入社社当初に考えたことはCIの統一でした。WEBの仕事ですが、入社時より弊社サイトの更新等を行っておりました。

 2019年には大きなリニューアルを行いデザイン設計や仕組み等を担当しました。その他、オンラインショップサイトの立ち上げ、Facebook/Twitter等のSNS等の開設にも関わっております。

 名刺をはじめパンフレット等グラフィック関係も制作管理しております。もちろん、デザインだけではなくて、新商品の企画・コラボレーション・タイアッププロジェクト等様々です。

――本当に幅広いですね。

 弊社では各スタッフが持っているスキルを惜しまず活用し仕事に活かせるよう努めております。ご注文頂いたお仕事は各担当が納品まで責任を持って行います。

――前にお客様をお連れした際のご説明として、浮世絵でいうと版元と摺り工場という例え方をされていましたね。「図案を描き全体を統括するのが版元(弊社)、指示に従って擦り上げる(染工場)」というご説明があったかと思います。実際、今御社が契約している染工場というのは何社くらいありますか?

 染工場は、主に関東でして東京は4軒と契約しております。

――それぞれに違いがあるものなんでしょうか?

 工場によって特性があり、得意不得意というのはありますので染めの内容や図案に合わせて工場を指定しております。そう行ったことも考慮しながら工場選定をしております。

創業以来、戸田屋商店の立地は変わっていない。

――型紙を彫ってくれるところも同じくらいあるんでしょうか?

 私が入社したころは弊社専属の形屋がおりましたが、高齢等の理由で引退されてしまいました。現在は別の形屋に依頼しております。

――形屋さんというのは染工場内にあるのですか?

 いや、別です。弊社で起こした図案を型屋に渡し仕上げてもらいます。仕上がったものを弊社でチェックし染工場の選定となります。ちなみに出来上がった型紙はお客様の所有物となります。

若い人たちは手ぬぐいを『古い』とは思っていない

――戸田屋さんの製品は手ぬぐいと浴衣地がありますし、それぞれに小売りするものと別注で誂えるものとの違いもあったりしますが、どのようなバランスでお仕事をされているんですか?

 私は誂えが多い傾向で、常に5案件ほどが同時進行しております。企業様からのお仕事はもちろんですが、イベント絡みのお仕事なども多いです。各イベント担当者様からのご要望を基に考えて製作し誂えております。内容によってはイベント企画にまで携わることもあります。

――ある程度まとまった数で単価もいいというように考えると誂えが多いんでしょうか。

 まとまった数(1,000本以上)は有難いのですが、デザインから納品までの時間と労力が関係するため、弊社のプロパー商品販売に比べると効率は良くありません。

――手ぬぐい地と浴衣地とでは比率はどのくらいですか?

 弊社は本来浴衣地屋ですので、昭和中期ぐらいまでは浴衣地がメインだった様です。聞いた話では昭和初期の頃は浴衣が9割、手ぬぐいが1割だとか。それが現在では逆転してしまいましたが。

――そんなに変わったんですね。

 なぜ手ぬぐいや浴衣の存在が薄れたのか。それは時代ともに西洋文化がメインとなり日本人の生活様式が変わったからだと思います。

――そうですね。

 まずは寝巻(浴衣)からパジャマに変わったこと。家業が旅館だったこともあり、祖母は昼は着物、夜は寝巻だったことを記憶しています。

 既にタオルは生活の必需品として普通に存在しておりました。

 そして、赤子のオシメも布から紙に変化したこと。ちょうど私の妹が紙に変わったぐらいの年代です。

 西洋文化が生活のスタンダードとなり、浴衣生地や手ぬぐい生地は生活必需品から外れていきました。

 「浴衣地→パジャマ・手ぬぐい→タオル」というように変遷を遂げ、手ぬぐい・扇子等、生活必需品だったアイテムが趣向品の様な特別な存在に変わってしまったのです。

 生活必需品だったものを、まずは生活用品に戻したいという思いで今後も勤しんでまいります。

梨園染め「鹿の子」柄

――手ぬぐいに関しては戻りつつある気がしますね。

 面白い事に10代〜20代前半の方々は、手ぬぐいの存在を知らないんです。以前に大学の教壇でお話しする機会がありまして「老舗がこの先にどの様な方向性で商品開発行い、PR活動をしていくのか」という様な内容を考える授業でした。

 受講されていた100人程度の学生さんたちは幾つかの班に分かれ、一ヶ月後に考えた企画をプレゼンテーション発表されました。

 まず、驚いたことは「手ぬぐいという物の存在を初めて知りました」っていう人がとても多かったこと。

 私は、それを聞いて「光が差し始めた」と感じたんです。「古いくさい物」とは思われてないんだなって。

――なるほど

 私が若い時分には手ぬぐいが祭りでしか使用されなかったりと「古くさい」ってイメージがあるじゃないですか?

――そう言われてみるとそうかもしれませんね。

 現代の若者たちには新しい商品に見えているようです。「なにこれ、ニューアイテムじゃん」って、そこが私としてはちょっとチャンスかなって感じています。

梨園染め「テッセンに蝶」。手ぬぐいはキッチンを華やかにもしてくれる。

ポケベルの老舗なんてない(笑)

――宮川さんから見た戸田屋さんの魅力、特に伝統ってどういったところに感じますか?

 この日本橋という地で染や布に携わった仕事を約150年の間続けていることでしょうか。

――ただ長い、というのではなく150年「布を扱ってきた」ということですか?

 所在地も変わらず、布に関するを商売を続けている。培ってきた歴史や知識、さらに技術であったり、そういうものにプライドを持って歴代継承しているわけです。時代のニーズに合わせて少しづつ変化もしなくてはいけない、それを惜しまず、怠らずに続けているところが老舗になって行くのでしょうか。

 例えばスマートフォンが当たり前の時代に、ポケベルを「ポケベルの老舗」と謳って宣伝しても売れないですよね(笑)。弊社も初の直販を始めてみたり時代のニーズに合わせて新しいことに挑み続けることも大事だと思います。

――なるほど、オンラインショップというのも変革の一部ですね。

 柄についてもそうですよね。完成された古典柄に頼り続けていても成長しない。

 でも、戸田屋はその古典的な柄を今風にアレンジしてみたり試行錯誤をしております。時には、こういうような(「自転車」の柄を指して)図案にしたり、新しいパターンを考案したり。そういう事が自分たちの役目なのかな、と思います。基本を守りつつ、常に新しいものに挑戦していく、というような事でしょうか。

自転車の柄は社長の発案によるものという

――そうして新しいものを生み出して、あれだけの数の柄があるわけですね。

 はい。弊社のプロパー商品である染物(手ぬぐい・浴衣)の柄数は500柄以上あるわけですが、これだけの柄数がある同業者メーカーは他にないと思います。古典柄が多いっていうのも一つの売りと言えます。

 谷中にある賞さんが弊社の品物を扱ってくださるのも、戸田屋は古典柄も多く、内容が粋で豊富だから安定感があるという事のようです。弊社では「麻の葉(古典柄)」をイチから描き起こして染めるのですが、世の中にたくさんある「麻の葉」なかで、戸田屋の「麻の葉」は良いね、と言ってもらえることが多く嬉しいです。

※(店主注:賞(めでる)。根津にある手ぬぐいの専門店で清玩堂のオリジナルも扱っていただいている)

 また、弊社は他のメーカーがやりたがらない柄や技術に挑戦する事があります。浮世絵のシリーズはとても難しく、原画から染まるようにオリジナルで描き起します。

 それから、早い時代から装飾用の手ぬぐいに力を入れていたのも理由の一つです。現在では珍しくありませんが、昭和中期ぐらいまでは手ぬぐいを飾る事が稀だったと思います。手ぬぐいは生活雑貨ですから普段使いとして扱って頂きながら、室内を装飾や埃除け等で彩って頂ければ幸いです。

戸田屋商店の2階には現行の品番500柄以上が在庫されている

本染めは色落ちを楽しめる

――戸田屋様では浴衣地も拝見しますが、ああいう素敵なものを着ている人って実はほとんど町では見ませんから、そもそもそういう品物が世の中にあることを知らない人の方が多いと思います。そういう意味では先ほどお話の出た若い人達も私もそう変わらない。こういう色使いができてこういう発色の布があるということを知らないから新鮮に感じると。

 そうですね。反物は切れば手ぬぐいで、それを2枚並べて連ねれば暖簾になります。家やお店等で使用されている間仕切の「目隠し暖簾」です。手ぬぐいで暖簾を発表したのは弊社が初だと聞いております。

――文化住宅にすごくよくマッチしたっていうことですよね。

 開発したっていうと語弊があるかもしれませんが、かなりの人気商品で当時大好評だったと聞いています。

――製品が使っているうちにどうなっていくかというお話を伊場仙様にもうかがったんですが。手ぬぐいに関して言うと、端切れになって何になって最後はボロ切れになっていくわけですけど、そこに至るまでの道のりについて、味が出るとか言ったりしますよね?

 先にも述べましたが、浴衣生地を切ったものが手ぬぐいです。それは江戸時代も含め古くから一緒の内容です。反物1反から浴衣が仕立てられますが、浴衣(普段着)として使用し続けると草臥れてきます。浴衣としての役目を終えた後に甚兵衛(子供服)→布巾・おしめ→雑巾、の様に使用目的を変えていきます。最終的にはボロ切れになる。柄もわからない黒く汚れたボロ切れは竈で燃料として燃やしたようです。その事から浴衣や手ぬぐいの美術館や博物館が存在していないんだと思います。

――残る物じゃなかったんですね。

 シャツも浴衣も普段使いの消耗品なので仕方のない事だと思います。

 それが現代では生活文化が変わり、ボロ切れになるまで使い倒し燃料にするのではなく、気に入った手ぬぐいを「使う事で味を出し、愛着を持って大切にする」という内容に変わりました。

――それはなんだかジーンズっぽいですね。

 そうなんですよ。本染めは必ず色落ちするので、その味を楽しめるのがプリントとは違うところですよね。元々、日本人は一つの商品を長く大事に使うのが好きなのかもしれませんね。万年筆とかライターとか、私もジッポーを使用していた時期がありましたが、ちょうど使い込んだ感じが格好良く、愛着が湧くんですよね。革なんかもそうです。新品の革財布より、使い込んでエイジングした方が粋でお洒落だし馴染も増して使いやすい。

――経年変化、ですね。そういえば、手ぬぐいの柄自体がそもそも縁起がいいという話もありますね。

手ぬぐいで使用する柄の意味や内容として、基本的に吉祥文様や験担ぎ柄が多く見られます。

 古くより名刺やお年始の配り物として存在しておりますのでマイナス要素は含ませません。現代でもお祝いやお目出度い時にお配りする事はよくある話です。出産や結婚などにオリジナル手拭いを作られるお客様も多いです。

圧巻の品ぞろえ!

文化を大切にしながら未来に提案していく街

――日本橋堀留町の魅力について伺えませんでしょうか?

 古いですよね。私が生まれ育ったのは隣町の人形町ですが、この辺りには友達の家があったり、堀留公園にはよく遊びに行きましたね。

――堀留公園! 公園脇のとんかつ屋さんがおいしいって伊場仙の大内様もおっしゃっていました。

 僕も嫌いじゃないですね。ソースとからしを効かせてね(笑)。

――今後この堀留の町はどんなふうに変わっていくと思いますか?

 堀留町だけが変わるということはないかもしれないですね。伊場仙様の小舟町もそうだと思いますが、小舟町なり堀留町なりを単体で発展させようっていう考えはあまりないと思うんですよね。道幅を変えるとか、通りから電信柱を減らしていくとか、日本橋全体を良くしていこうっていう動きの中で変わっていくんだと思います。

 働いているとね、日本橋は文化を大切にしながら未来へ提案していく街だなって感じるんですよね。

 個人的な思いで述べますと、私の幼少時代の人形町は木造建築だらけ、まさにザ・下町で「○○屋の○○ちゃん」とか、営まれている商売がついた愛称で呼び合ったりのも普通のことでした。

 一部ですが蓋のない暗渠が存在してましたし、木の電信柱の跡?の様な物が残っていたりと、まさに昭和40年代ノスタルジア。現在では面影も薄れつつある街の風景がとても懐かしいです。だからこの先も、高層ビルが立ち並ぶ様な景色にはなってほしくないと願います。

相変わらず不慣れな店主のインタビューに丁重にご対応くださいました宮川様、誠にありがとうございました。

手ぬぐいはその昔、浴衣地の「なれの果て」の姿として普段使いされていたという側面もありながら、今では逆に新しい、「エイジング」を楽しむアイテムとして認知が広がりつつあるというお話は非常に興味深かったです。

「手ぬぐい」は、同じ品物でも世の中の在り様につれて変化していくまさにその只中にあるのかも知れません。

清玩堂ではこれからも戸田屋様の梨園染めを大切に売らせていただきます。ありがとうございました。

2021年8月吉日

店主拝