根津で二十年余、界隈で幾度かの移転を経ながら愛され続ける酒場「たまゆら」。
バーのようでいてバーでなく、スナックではなくクラブでもない。店主様は「一期一会のサロンみたいなものだといいわね」とおっしゃいます。
ご好評頂いております「たまゆら便り」第6便。前回に続いて飛鳥山の散策からの所感をお届けいただきました。
たまゆら便り⑥ ~如何にせば道理にかなうか…~
「事柄に対し、如何にせば道理にかなうかとまず考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかを考える。そう考えてみたときに、もしそれが自己のためにはならぬが道理にもかない、国家社会を利益するということなら余は断然自己を捨てて道理のあるところに従うつもりである」
久し振りに飛鳥山を訪れ、以前から好きだった渋沢栄一の言葉を思い出しました。
コロナ禍で人数はさほどではありませんが、大河ドラマ館やらおみやげ館、渋沢栄一資料館その他。以前のお花見や遊園地だけではない面白い散歩ができました。
今まで拝見する機会もなかったのですが、渋沢栄一の喜寿を祈念し清水組から寄贈された「晩香廬(ばんこうろ)」。
傘寿の祝いに彼の影響を受け慕う「竜門社」の同人が寄贈した「青淵文庫」。内部までは見られませんでしたが、庭を廻り、建物を仰ぎ往時を偲ぶひとときを得ました。
どちらも設計は田辺淳吉という清水組の建築技師で、淡い色合いの色絵タイルも、ステンドクラスも石壁さえも落ち着いたプレモダニズム。
その佇まいは百年経ったとは思えぬのどの堅牢さで静か。庭に然りげなくおかれた椅子に座り、心落ち着かせさせて頂きました。
奇しくも東京大空襲時、近隣住民の方々がせめてとバケツリレーで消火につとめ、戦火から守ってくださったという2棟と聞きました。渋沢栄一がいかにご近所の方々を大事にし、又大事にされて来たかの証だと思います。
一次は官職を得て政府の中で活躍していた彼が、個人的な出世や名声だけではない使命を直感し、多くの反対を押し切り官職を辞し、実業や社会事業に邁進していったのは若いころに使節団員としてパリ万博、そして欧米諸国へ随行した検分から得た知識、実感によるもの。
侍が、公家だ、国家だというところを打破し、政府政治だけでは治まらない、やり遂げられない国づくりを考えたからだと思います。
それは自国をおもうに留まらず、1906年のサンフランシスコ大地震の時はいち早く義援金を集め送ったということです。
彼のそうした活動により、排日移民問題など多くの問題の悪化を防いだということですし、歌にも歌われた「青い目の人形」のお話も彼の業績からのようです。
また、80歳を越えてなお、関東大震災時だけではなく、日本各地を襲った災害に救済団体を組織し尽力したといいます。
私の大好きな絵描きが、三河島の路上で行き倒れ、板橋養育院に運ばれてそこで死んだのですが、どうやらそこも渋沢翁が尽力した施設のようです。
翁の死去に際し、飛鳥山は公のものとなるように遺言され、多額の維持費も充てられていたそうです。
500近くの会社を興した彼の苗字が残された会社が澁澤倉庫だといいます。
久し振りに訪れた飛鳥山につられ、渋沢栄一について少し活字を読み進むだけでも、何と多くの事をやり遂げ、残し、影響を与えた人だったのかと驚くばかりです。
彼の残した言葉にこんなものもありました。
「成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟糠のようなものである」
「論語と算盤」読んでみたくなりました。
2021年9月吉日
たまゆら拝