根津で二十年余、界隈で幾度かの移転を経ながら愛され続ける酒場「たまゆら」。
バーのようでいてバーでなく、スナックではなくクラブでもない。店主様は「一期一会のサロンみたいなものだといいわね」とおっしゃいます。
ご好評頂いております「たまゆら便り」第7便は、谷中墓地から根岸に抜ける銭湯への「小旅行」からの所感をお寄せいただきました。
たまゆら便り⑦ ~黙ってそこに在るものの強さ…~
銭湯にでも入りゆっくりしたいものと、9月に入っても暑さの続くある日の午前中、歩き出しました。
6時から9時までの3時間開けた後、2時間ほど閉め11時から午前1時まで営業しているなんともうれしくなる銭湯が根岸にあります。
自宅を出、人もまばらな谷中銀座を通り、夕焼け段々を登り、日暮里駅手前谷中墓地へと入る階段を上ります。
谷中墓地は都立谷中霊園と明示されていますが、上野寛永寺、谷中墓地そして、私が子供の頃放火心中事件によって消失してしまった幸田露伴の小説で有名な五重塔や、江戸時代に目黒不動尊、湯島天神ともに三富と称され賑わいを見せていたという天王寺、その三つ異なったところの所有と相成っているようです。
全くの夜分だと墓所を歩くのは怖さもありますが、日中は空の広さといい静けさといい、格好の散歩道なのです。
とりわけ、私は墓地の桜樹を楽しみます。枝になる花や葉の四季折々の美しさと、太い幹の織り成すシルエットや映える色合いに、敬虔な尊敬心さえ生まれます。
特に真冬の凍てつく夕暮れの中、深く大地に根を張り、様々な条件に耐え、しかして克服したとしか思えない太い桜樹の連なる様に、私は何度か試練を越えさせてもらいました。黙ってそこに在るものの強さに勇気を頂いたものでした。
勿論、根岸の銭湯へ行く道は他にもあるのですが私は谷中墓地を抜け往復するのが好きなのです。墓地から根岸へ抜ける為に、御隠殿坂を通り橋を渡って行きます。その坂の手前に渋沢家の広い墓所を見つけたのも、その銭湯通いの故でした。いつもなら、人一人居るわけでも無いその墓所に案内板と数人の人達がおりました。大河ドラマの影響です。
根岸に入り直ぐの道を右へ入り、ねぎし三平堂を通り過ぎると、尾久橋通りに出ます。その道を右手、根岸小学校方面に向かい歩くと、ビルになったその銭湯はあります。
並の代金で炭酸風呂、露天風呂とそのほかしっかりと満喫できます。
帰り、ドライヤーを少しあてただけの濡れた髪を乾かす為にも、又歩きます。ドライヤーで完全に乾かすよりも、大雑把にドライヤーをし、あとは自然に任せた髪型のほうが私の性に合っています。
渋沢家の墓所を通り過ぎ、横に走る墓地通路を左手に上野桜木町経由で帰ることにしました。
暑くても、この気持ち良い風呂上がりの午前をもう少し歩きたいと思いました。
思春期頃、木村克という彫刻家の作品に触れ、そのダイナミックな女体に太古の響きを感じ、隠れファンになりました。その方が上野桜木に住まいすると知り乍ら、訪ねる勇気もなく過ごしてしまいました。
そんな事を思い出し乍ら、平櫛田中の旧居兼アトリエの佇まいを見て帰ろうと思っての桜木経由でもあります。
田中は上野の西郷像でも有名な高村光雲、安曇野に生まれ同じ郷里の新宿中村屋を創業した相馬夫妻に感化を受けた萩原碌山、朝倉塑像館の朝倉文夫と並び称される彫刻作家でもありました。
日本の伝統彫刻と近代美術の融合を試みた彼の作品は、東京芸大の天心座像や国立劇場ロビーの鑑獅子等有名です。
それ以上に、107歳で没するまでユニークな言葉を残した方でもありました。谷中小学校を訪ねる機会が有り、講堂に掲げられた「いまやらねば いつできる」と揮毫された扁額に清々しく圧倒されたのを憶えています。
「不老、六十七十はなたれ小僧 男盛りは百から百から わしもこれからこれから」
「いまやらねばいつできる わしがやらねばたれがやる」
も彼の言葉です。
その昔、私の住まいする辺りには、お会いしたかった方々が大勢おられました。否、私が昔を想うばかりで今もそうなのやもしれません。
門の閉じられた旧居兼アトリエの風情を塀越しに眺め、日本家屋の端正さにホッとしながら、ひたすら裏道を行き、根津谷中の境を走る通称へび道を通り家路に辿り着きました。
往復3時間以上の銭湯小旅行でした。
2021年10月吉日
たまゆら拝