たまゆら便り⑧ ~一葉再々、ギターの調べ…~

根津の闇夜に茫として浮かぶ「たまゆら」の佇まい

 根津で二十年余、界隈で幾度かの移転を経ながら愛され続ける酒場「たまゆら」。

 バーのようでいてバーでなく、スナックではなくクラブでもない。

 店主様は「一期一会のサロンみたいなものだといいわね」とおっしゃいます。

 ご好評頂いております「たまゆら便り」。はや第8便を数えるまでになりました。

 近隣にゆかりの深い樋口一葉への想いからかつて見た菊人形への憧憬、そしてギターの調べへと、気ままな散策からの便りをお届けします。

たまゆら便り⑧ ~一葉再々、ギターの調べ…~

 若い頃、樋口一葉の文章に触れ驚いた。

 なんと美しい言葉、文章遣いの作家なのだろうと思った。

 24歳で没したとされる一葉が何故その若さで俊逸した文を奏でる事が出来たのか、いかに幼少から勉学に目覚めたとはいえ、天才としか表現し得ない文章力に心がクラクラしました。明治20年代は、まだ女性が胸を張り仕事をし、自らの意思を言明する事等、程々遠いと目された時期なのです。

 何篇かの作品を読み、日記も出版されていることを知り読みました。一葉研究で知られた和田芳江の講演にも出掛けました。

 10代以前から和歌、古典その他懸命に学び蓄積された文学力、天才力それ以上に時代への反逆的な一葉ならではの透徹された鋭い定理があったと思えました。

 17歳にして父を亡くし、一番の年長ではないが、戸主として家長として勤めを果たそうとする意志は並外れたものでしたのでしょう。

一葉に触れた頃の私ももの想い時だったのでしょうか。彼女の半井桃水への恋情に思いを馳せ、本郷通りの路地道をよく歩いたものでした。ほどほど衣食の足りていた昭和期でさえ、冬場は小一時間も歩いていると寒さが足元から襲ってきました。

思いがけず、神奈川近代文学館で樋口一葉展にふれる

 様々不十分な生活の中、本郷から芝区まで只ひたすら歩いた一葉の心境はいかばかりのものだったのでしょう。家計の為にも、文学で身を立てたいと渇望し、桃水を師と仰ぎ求めた丈では無い、異性としての思慕が深かったからこその道中だったと想像します。

 ある日など、漸く辿り着いた先で桃水はまだ就寝中、火の気も無いうす暗い玄関先で何時間も待っていたというのです。

 一葉が短い間に後世に残る作品を仕遂げた因の一つとして、桃水への想いは絶大なものであったと思います。

 よく目にする桃水の写真は優男の風情も有り、記者作家と云う職業柄からも浮名は多々有った様子です。彼の遺した文章や一葉死後のエピソード等、桃水への想いは相思相愛とは言えなかったのかもしれません。世の中ままならのは古今東西なんどきでも同じようです。

 しかし、一葉は死期迫る頃には、自らを嘲笑いするかの如くに表現すると、卓越した境地に落とし込み、その独りを生きる深さに静謐な凄味さえ、他者へと感じさせるのです。

 一葉は末期にあたり、朽ちるのは惜しいが何やら華やかな晴々しい心境をも味わえたのではと、一ファンとして信じているのです。

 そんなこんなをつらつらと思い出し乍らのある日曜日、久しぶりの散歩に出掛けました。

 東京大学弥生キャンパス麓にあった旧官舎跡の余りにも荒れた住居群、旧アイソトープ研や原子力研のうらぶれ過ぎた建物群に愕然としながら、本郷通りを渡り知らぬ間に菊坂へと足を向けていました。

旧官舎は静かにリニューアルの時を待っている(撮影は2021年)

 一葉が足繁く通った質店。伊勢屋質店は文京区指定有形文化財となっています。現在の主は跡見学園女子大学となっております。

 歩いた日は、運良く見学可能日でしたので、初めて建物内を見る機会となりました。

 菊坂の由来も、古くは一帯に菊畑が広がり菊花作りの多いところからのものと知りました。

そういえば、幼い頃、団子坂辺りで菊祭が催され、菊人形その一つ一つの美事さに、子供ながらに心踊ったことを憶えています。

 其の後、何時だったでしょうか、何処だったでしょうか、菊人形と銘打って幾つかの人形が並んでいましたが、竹で編まれた本体の空いているところに菊花を挟み込んだ様なものでした。私が感動した菊人形は歳月をかけなければ作品にはならないものでした。同じ様に竹で編まれた本体は、しっかり鉢に組み込まれ歳月かけ、土から育つ菊を形に合わせて成長させていったものでした。顔や手にしっかりと合った生々した色合せや花揃えは、美事以外に言葉は有りませんでした。

 時を忘れ手間暇かけて仕事をするを善しとした職人さん達が、どの分野でも少なくなり消えていこうとしています。悲しい事実です。

 伊勢屋さんは、玄関を中央に見世(店)と土蔵が左右に分かれ、中庭のある見世兼住居の暮らし易そうな建物でした。

 何年振りかの本郷散歩の次の日曜は、コロナで延びていたギタリストの濱口裕自のライブを聴きに横浜まで出掛けてきました。

一葉再々、港の見える丘公園からの横浜港の夕暮れ

 2時間程のライブなので、もう一か所くらいとネットを調べると、神奈川近代文学館で樋口一葉展が催されていました。アコースティックギターの調べを堪能した足で近代文学館へ行き、再々樋口一葉にふれ、何年振りかの港の見える丘公園からの横浜港の夕暮れを眺め、ゆっくりと中華街をも楽しみ、満足した日曜日を終えました。

2021年11月吉日

たまゆら拝