【寄稿】たまゆら便り④ ~時計替りのテレビからは…~

根津の闇夜に茫として浮かぶ「たまゆら」の佇まい

 根津で二十年余、界隈で幾度かの移転を経ながら愛され続ける酒場「たまゆら」。

 バーのようでいてバーでなく、スナックではなくクラブでもない。店主様は「一期一会のサロンみたいなものだといいわね」とおっしゃいます。

ご好評頂いております「たまゆら便り」第4便。熱海の土砂災害の悲惨さから思い至る、事に臨む責任者たちのあるべき姿などについて、お寄せ頂きました。

たまゆら便り④ ~時計替りのテレビからは…~

家の時計が壊れて久しい我が家では、時計替りにテレビを点けることが多い。

点けたテレビから飛び込んできたのは十年前の恐ろしい震災を彷彿とさせるニュース。

まさかと思える、熱海の住宅が一気に流されていく様でした。

昔々、事を治める役を担った人たちは、城や街を作るにも、地の利、方角を含め使用する材木、石、あらゆる材をもしっかりと検分してから事に臨んだそうです。

今の時代は築3、40年たつと建て替え等の話が出るのだそうですが、第二次世界大戦後の混乱期に焼け残ったりした古建材で立てた家でも、床の歪みや壁等を修復すればまだ住居とするに足る家になります。

近代の進化、進歩とはいかなる事なのかと複雑な不思議を感じます。

熱海の惨事には言葉を失った。日本中にこうした地形があまたあること、また人災という側面もあったことにやるせなさを覚える。(7月7日新幹線車窓より店主撮影)

自然の造形物を相手に、造成とは恐ろしく遠大で責任のいる事だと思えます。

若かった頃、チャンスがあって京都西陣の織屋さんへ見学という縁に恵まれました。ジャカード織よろしくパンチカードを使用した図案に合わせ、布が規則正しい音を奏でて出来上がっていくのです。

日本古来の布を織るのになぜパンチカードをと怪訝に思いましたが、明治五年には西陣の染織関係者5人がフランスのリヨンに留学し、当時の最先端であったジャカード織を学んで来たといいます。

私が連れ添った人がコンピューターがまだ一般的ではなかった頃、パンチカードの束を抱えて大型計算機センターへ忙しく行き来していたのは今から40何年か前のことです。

たまゆらの裏手、東大浅野キャンパスではかつての大型計算機センターが情報基盤センターに改組され、今も稼働している

明治10年、同じくリヨンへ化学染料を学びに行った日本人がいたそうです。

新しい洋装用の布地にだけではなく古来の反物や帯地、その他に早速新しい技術を導入し、魅力的な価値あるものを生み出していったひたむきな生産意欲には、並々ならぬものが有ったことでしょう。

その結果、大店呉服店の店舗拡張、デパート化等の目覚ましい進歩も生まれたのです。

江戸から明治へと、変容期の日本人の聡さ、事態を先取して上昇志向へと連ねていく行動力、エネルギーには絶対的なものが有ったのでしょう。今、自分のうちにその頃の日本人魂をしっかりを思い返したいと願います。

2021年7月吉日

たまゆら拝