【寄稿】たまゆら便り② ~変化しつつ、続いていく~

闇夜に茫として浮かぶ根津の名店「たまゆら」の佇まい

ご好評頂いております「たまゆら便り」、今回はたまゆらの裏手(西側)にあたる東大浅野キャンパスのあたりにまつわるお話をお寄せくださいました。

たまゆら便り② ~変化しつつ、続いていく…~

「この辺も心配無くなったよな。前はちょっとでも多い雨降りだと場所によっちゃ大変だったよ。伊勢湾台風の時なんか、不忍池が溢れかえってさ、鯉とか亀とか遠くまで流れて行っちゃって大変だったよね!」

 夕方から本降りとなった雨の夜、この近辺に住するお客様が店に入るなり話し始めました。伊勢湾台風。もう五十年以上も前の話です。私は幾つだったでしょうか。

その当時、平屋住まいだった私達親子は、ご近所の二階家へ避難させて頂きました。

 子供たちは木の盥に乗せられ移動したのを覚えていますし、雨水が床の上に嵩を増していく様を恐ろし気に只見ていたのを覚えています。

台風一過の朝、抜けるような青空の下、各々の家外に沢山の畳が立て掛けられた事は勿論でした。

不忍通りはずいぶん低い

海、津という「さんずい」の倣い通り、その昔は根津のあたりも湿地帯であったと思います。現在のように大直径の排水管が地下を通り、大概の雨量には問題無いと言われる地になる以前は、台風でなくても多めの雨日には長靴無しには通行不可能な小道が沢山あったようです。不忍池も元々は今よりも規模が大きく、万国博覧会や競馬場設置に伴い整備され、池であった一部が道路や宅地になったようです。

この近辺に詳しい方が、場所により地盤の良し悪しが極端に違うのはそれ故と教えてくれました。当たり前に大昔、江戸から明治、そして現代へと変化を遂げていくのですね。

現在、東京大学浅野キャンパスとして多くの研究室、センター他施設の立ち並ぶ浅野地区も、江戸期には水戸徳川家の中屋敷。明治に入り新政府に収用され、警視庁の射的関連施設として使用されました。射的訓練は盛んに行われ、西南戦争時にはここで訓練した射撃隊が九州の戦場に送られたようです。

汚名を払拭された後、高村光雲作の銅像が上野山に建つ西郷隆盛と戦った人たちがすぐ近くで日々射撃の訓練をしていたのです。

その射撃場も含め、明治20年代に半分は宅地開発で住宅が建てられ、そのほかは侯爵浅野家へと払い下げられたようです。

浅野キャンパスを言問通りから望む

私の子供時代には、そこはすでに東京大学の用地だったと思いますが、皆が浅野の山と呼び、郊外や野山をかける子供よろしく、沢山の樹々や野草、野花の生い茂る中、日がかげるまで遊び惚ける場所でした。

その日その日、思い思いに集まってくる子供たちが天空高く声をあげ、奇声をあげ、汗を流し、お腹の空くのも忘れて遊び廻った場所でした。

私には特に木登りが最高に面白いものでした。弥生式土器はおろか、後には環濠や貝塚が発見される正にその地で遊び廻っていたのです。

中学生になる頃、理学部三号館が建ち、追いかける様に工学部九号館、大型計算機センター、低温センター等の大型構造物が現れ、本来の役目を果たすべく浅野キャンパス群へと変貌していったのです。

変化しつつ、続いていく、興味深いことです。

しばらく人気のなかった官舎(左手)もリニューアルされるのだろうか。

2021年4月吉日

たまゆら拝