根津で二十年余、界隈で幾度かの移転を経ながら愛され続ける酒場「たまゆら」。
バーのようでいてバーでなく、スナックではなくクラブでもない。店主様は「一期一会のサロンみたいなものだといいわね」とおっしゃいます。
ご好評頂いております「たまゆら便り」第5便。コロナ禍で自粛の続く中、熱波を避けて歩く知らない街での小さな発見のいくつか。バス、都電、徒歩で見つけた近在の風物をお届けします。
たまゆら便り⑤ ~マスクを嵌めて知らない土地に…~
生まれは道玄坂と聞いているものの記憶も何もなく、物心ついてから海の外で少し暮らした以外は延々とこの辺りで暮らしてきました。
店を開こうと決めた時も、転居を余儀なくされた時も、電車に乗り歩き、いろいろな区を跨いでまた歩き、考えに考えた。
果ては、なーんだと腑に落ち、心を落ち着かせる地が私にとり慣れ親しみ、そこしか知らないこの辺りでした。
そして、住まいと店との往復で日々を過ごしてきました。
この未曽有のコロナ禍で休業せざるを得なくなり、せめて歩くことぐらいはと只々歩いてきました。
気づくと恐ろしいほどの日数です。それも常の道ばかりを誰と会う約束もなく只歩くのみの日々。
思いました。
マスクを嵌めてひたすら歩くだけなら、コースを変え知らない土地に緊張感を持って踏み込むのもよしとすべきではないだろうか、と。
まず手始めに、ほぼ乗車したことのない浅草寿町行きの都バスに乗り込みました。尾久と云う所に降り立ってみたかったのです。東北本線に乗るとすぐ「尾久」と云う駅名が目に入ります。乗車人数も少なく普通列車しか止まらない駅です。
昭和の初め頃、男の人との凄まじい事件を起こした安部定という人と、事件の起きた場所が尾久と聞いて気にかかっていましたし、職人仕事をする人たちの多く住む町と云う印象があり、いつか歩いてみたいと思っていました。
バスに乗り、経路表示を調べると、このバスでは尾久あたりには行かないと気付き、三ノ輪で下車。
三ノ輪発の東京さくらトラムに乗りました。
車掌さんに聞くと、東尾久と西尾久とがあり、東尾久三丁目駅から熊野前までが相当するとか。東尾久三丁目停留所で降ろしてもらい歩き出しました。
尾久の地名を線路沿いに歩き、町屋へ出たら地下鉄に乗り帰宅する予定です。
都電からさくらトラムと名称を変えた後も、何度か乗ったことのある電車でしたし、線路沿いに道が続いていると思い込んでいました。歩いてみますと、然るに非ず。線路伝いに尾久の町を歩くだけでも、何か所も通路を塞がれ、線路から離れた道を歩くしかありません。余り人とすれ違うこともなく、只歩きました。
東京の町を縦横無人に走っていた都電の中で唯一残り、さくらトラムと別称され息づいている線路、その線路沿いの町はもっと人達の行き交う町と想像していましたが、舎人線と交差する熊野前の辺りでさえ、人気の少ない町でした。
うだるような暑さの中、黙々と歩きました。
ヒタヒタと歩く左手前に、重厚かつ荘厳な建物が目に入りました。趣のある立派な建物群です。
教科書に関した東京書籍株式会社創立二十五周年記念事業として建てられた「東書文庫」とありました。
コロナ禍で休館されていましたが、塀越しにも見えるアール・デコ調の意匠と東京大学本郷構内に建つ古い建物群や帝国ホテル旧日本館を思い出す黄土色のスクラッチタイル。見惚れてしまいました。
表札の文字は根岸にゆかりのある中村不折画伯によるという。簡単に調べただけでも明治初期から戦後辺りまでの近代教科書関連資料が八万点弱も保管されていて、国の重要文化財に指定されているといいます。しかも、教科書にはその時代毎の在り様が映されていて、それを繙くことで日本が歩んできた姿そのものが映し出されるといいます。因みに、文庫案内の最初にある昔の教科書の表紙絵も、挿絵も、それは懐かしく、色合いもほっこりするものでした。
休館宣言が解かれた時、改めて訪ねたい所です。
まだまだ町屋ではないのかしらと周りを見渡し、地名の書かれた電信柱を見つけると、なんと北区とあります。
知らぬ間に、線路沿いから奥に入り込んでしまったようです。
しばらく行くと目前に横たわっていたのは新幹線と京浜東北線の高架橋でした。
王子に辿り着いてしまった様子です。せっかくですから、飛鳥山にも行ってきました。
北区生まれの倍賞千恵子さんの優しい案内を聞きながら、スロープカー「アスカルゴ」の乗客となり、アッと云う間の山頂です。
若い親子連れと多くすれ違いました。今日は一万五千歩と日々よりずっと多く歩数を重ねましたが、とても楽しいものでした。
飛鳥山については、次回書かせていただきたく思います。
2021年8月吉日
たまゆら拝