【寄稿】たまゆら便り⑩ ~「泪橋ホール」何度目かの正直~

根津の闇夜に茫として浮かぶ「たまゆら」の佇まい

 根津で二十年余、界隈で幾度かの移転を経ながら愛され続ける酒場「たまゆら」。

 バーのようでいてバーでなく、スナックではなくクラブでもない。

 店主様は「一期一会のサロンみたいなものだといいわね」とおっしゃいます。

 ご好評頂いております「たまゆら便り」。第10便は、かねてより切望されていたという映画喫茶「泪橋ホール」への訪問を果たされたお話。

 高校生時代の思い出から現代の山谷(ヤマ)へと巡る出逢いのエッセイをどうぞ!

たまゆら便り⑩ ~「泪橋ホール」何度目かの正直~

高校生時代、心優しい上級生と知り合いました。そのお陰で上級生や大人の人達とドライブや、演奏会へ出掛ける楽しさも味合せて頂きました。彼女は同年代以外の人と、色々なことを親しく語り合う経験をさせて頂いた人でも有りました。

その上級生が、「住んでいるところは日本堤と云う所で、泪橋の近くなの。」と泪橋を誰でも知っている所のように語った事が、気になっていました。

後年、泪橋とは、その昔、罪人を磔、火焙り、獄門にする刑場の近くにあった橋で、刑場に向かう者にとっては、この世の見納め、また、家族や見送りに来てくれた人たちとの今際の別れを惜しむ場だったと知りました。

時代物で聞き慣れた小塚原刑場の近く、思川にかかっていた橋がその泪橋だそうです。

江戸の北の小塚原、西野大和田刑場、そして南には鈴ヶ森刑場。鈴ヶ森刑場に向かう橋、立会川という川にかかっていたその橋も泪橋と呼ばれていたそうです。

現在、思川は暗渠となり、泪橋も無くなり、交差点に泪橋と表示されているのみとの事。

多田裕美子さんの「山野 ヤマの男」(筑摩書房)。山谷(ヤマ)の男たちのみならず多田さんの筋の通った物の見方に惹かれる。

昨年、お客様にお借りし読ませて頂いた「山野ヤマの男」と云うフォトエッセイを読み、その著者多田裕美子さんの撮られた、なかなかに善い顔をした訳有りらしき人達に心惹かれ、玉姫公園に青空写真館を開設し、根気よく写真を撮り続けた著者その人の温かさにふれた思いが致しました。

著者の現在のお仕事が映画喫茶「泪橋ホール」と云うことを知り、ますますの著者への関心と久し振りに思い出した泪橋と云う呼称に行ってみたいと思うようになりました。

最初に思い立った時はコロナウイルス感染症による蔓延防止措置の為に休業中でした。

今年に入り、店の熱帯魚たちのエサと水草をと、水槽設置時からお世話になっている言問橋近くの熱帯魚屋さんへ行き、そこから泪橋はそう遠くない筈と、言問橋手前の吉野通りを南千住へ向かって自転車を走らせました。難なく所在を知ることは出来たのですが、生憎の定休日でした。なんとなく、何もなく帰るのも淋しいと、やはり吉野通り添いに在るコーヒー店「Café Back」でハンドピック豆の美味しい珈琲を、のんびりといただいて帰宅しました。

小塚原回向院。豊国山回向院とも。

何度目かの正直を決め、ある金曜日出掛けました。自宅の壁に取り付けた洋服掛けが壊れ、修理の為の特別なネジを購入する予定も有ったので、南千住に在るホームセンターへも寄りました。店員さんのアドバイスを受け、予定の物を購入し、もう泪橋ホールも開店している筈と、その昔、本所回向院の住職弟誉義観が常行堂を創建したことに始まる、南千回向院や延命寺を右に見て吉野通りへ向かいます。回向院は豊国山回向院、又、小塚原回向院とも呼称されていて、刑場での刑死者を供養した寺でも有り、有名な人には安政の大獄で刑を受けた橋本佐内、吉田松陰、頼三樹三郎。又、解体新書を著す為に蘭学者杉田玄白、中川淳庵、前野良沢達が解剖を試みたことを記念した観臓記念碑が建立されているそうです。

鉄道敷設で別れた南側が延命寺として残る。

私も、時には散歩がてら三ノ輪や南千住で買い物をします。三ノ輪から沿線添いに南千住へ歩く時、回向院は認知しているのですが、一度も寺内に踏み入った事は有りませんでした。多少の歴史も知り、気遅れが先立っているのかもしれません。

さて、人影もまばらな静かな町を歩き進むと、ほどなく、右前方に泪橋ホールが見えました。初見から気に入っている店の看板は、緑地に白で泪橋ホールと書かれたレトロ調センスのものです。涙の偏の三ずいはご自慢の餃子を表し、旁の目の縦の線には白地に緑の点々でフィルムを表しているようです。

看板の文字は餃子とフィルムを模している

店内では著作権をクリアした懐かしい作品や、時には関係者の好意による作品がワンコインで観られると云う事です

いよいよ、戸を開け入りました。

多田さんは厨房で作業をしていらして、店内には一人客が二人。各々のテーブルで御一人は携帯電話を探られ、御一人は本を読み乍らの昼食中でした。

主が厨房から店内に顔を向け「いらっしゃい」と私に声をかけてくれました。

その目や身体から、透明感以前の原始的かつ懐かしさが、私の内に飛び込んできました。

その一撃で、好感が満ちました。

注文を聞かれ、「お勧めを」と答えると、最近チャイの手作りを続けている私に「チャイはどうでしょう。それと餃子。小さいから大丈夫ですよ。」

どちらも美味しく頂戴いたしました。

店内にはたくさんの映画の幟がかかる。

片側の壁面を映画の垂れ幕が飾り、反対側にはイベント案内が掲示されている店内。

私が著書を拝見して以来、お訪ねしたかったと伝えると喜んで下さり、私の店の水槽をいつか見に行きたいと言って下さいました。

私も近々のイベントに再訪を約束し泪橋ホールを出ました。

今までの地下鉄コース、根津、千駄木経由、北千住から南千住を止め、常磐線コースで日暮里駅下車、谷中銀座買物コースで帰宅となりました。

2022年月吉日

たまゆら拝