「手仕事の店」ってなんだろう…③

店主のツイッター表紙にも使っている写真。雨の不忍池。もうすぐこうした厳冬の季節になります

 会社、お店を始めて感じたこと。

 今のビジネスは音楽でいえばギター一本の弾き語りのようなものか…

 微妙な位置づけの中高年が増えた今、店主の経緯とは異なりますが「のれんわけ」のような

 独立が増えていくのかもしれません。

 今や死語でしょうか…「脱サラ」。独立、起業、言葉は何でも良いと思います。

 「営業のやつ」だった丁稚がのれん分けをしてもらって、開いた店でまたへこたれる――

 実のところとても古くからある小商人の生業をすこしお話ししようと思います。

 

 

「営業ができる」はカラオケの名人

独立して、おぼつかないながらも商売の日々が始まると、勤め人であったそれまでとの働き方の違いについて痛感させられることは本当に多くありました。

それはある日突然に多くを学ぶという感じではなく徐々に、順を追うようにして得られる気づきの積み重なりで、実のところまだ頭の中が完全に切り替わっているわけでもないのだろうと思います。

まずもって、

・誰も助けてくれないが、誰も何も言ってこない

実際にそんな日は有りませんが、平日に一日寝ていたところで、誰かに何か言われることはなく、ただ自分の商売がやせていくだけ、ということ。

・営業が良くできる、ということはカラオケが上手、ということと同義

開業するということは、自分で曲を書き、バンドメンバーを探し、自信をもって歌うということで、

会社員時代に「営業ができる、得意かもしれない」などと鼻にかけていた「営業のやつ」は

ただ会社の曲を伴奏してくれるみんなのリズムに合わせて歌っていた――カラオケが上手なことで悦に入っていた――のと同じことだったのだなあ、ということです。

私の商売の規模では立派なバックバンド(=会社組織)を編成できるだけの力もなく、

ギター一本で弾き語りをしているというような状態かと思います。

歌がうまいかどうかというよりも売れるかどうか、聞いてもらえるかどうかということが重要なのです。

 

「微妙な位置づけの中高年」はのれんわけしてもらえるのか?

「のれんわけ」の話をしようかと思っていたのでしたが、少々脱線しました。

あまり詳しくはないのですが、江戸時代の商売人の多くは、少年時代から「丁稚(小僧)」として商家に住み込みで働きはじめたようです。

読み書き算盤の学習と行儀見習い、雑務全般の手伝いなどを通じて商売の概要を学び、

17歳くらいから「手代」になって帳簿付けなどの商売の内側に触れ始める。

30歳くらいで「番頭」になれば管理職です。お相撲さんが関取になると部屋の外に住めるように、

結婚もできれば外に家を構える事も出来たようです。

そして、「のれんわけ」ですね。

相当に優秀な商人であれば主の商家に婿入りしたり、大番頭として残るという道もあるのでしょうが、

そうではない微妙な位置づけの番頭さんたちは、「のれんわけ」をしてもらって自ら一商人として独立しました。

この「微妙な位置づけ」の中高年、というのが今の日本社会にはとても多いと思うのです。

 

「のれんわけ」は減っているのではないか

私の祖父は某フィルムメーカー黎明期のエンジニアでした。

会社員人生の最後の何年間かは子会社の社長を務め、退職が確か55歳くらいだったようです。

これも一種の「のれんわけ」のようなものであったのかと思います。

私が20代の頃に勤めていたメーカーでも、古株の営業社員が地元に帰ってその会社の製品を売る代理店を開くというような事がありました。これも「のれんわけ」のようなものでしょう。

最近は勤め人がそういう風に「それまでの職場の庇護を受けて独立ないし第二のキャリアを歩み始める」という話が減っているように思います。

私の開業は前職からの庇護を受けているというようなことはないので「のれんわけ」とも違うのですが、

お付き合いのあった仕入先様たちに励まされてという意味では職務の延長線上にある開業でした。

少し前に株式会社電通が子会社としてニューホライズンコレクティブ合同会社を設立した経緯などは、これは「のれんわけ」のようだな、と感じたのですが、

ああいったアクロバティックな例もこれから増えていくのかもしれません(相当変わった形態ですので、ぜひ当時の記事を検索して読んでみてください)。

店主も先の8月で会社としても3期目を迎える事が出来ましたが、いまだに自分の手掛けるべきビジネスを模索し、格闘している最中です。

次回は現在手掛けている商品、サービスについてお届けします。

2022年12月吉日

店主拝