「手仕事の店」として開店した清玩堂も、おかげさまでオープンより1年半を過ぎました。
あっという間だったこの来し方と行く末――「手仕事」というものはどういうものなんだろう。
今や死語でしょうか…「脱サラ」。独立、起業、言葉は何でも良いと思います。
「営業のやつ」だった丁稚がのれん分けをしてもらって、開いた店でまたへこたれる――
実のところとても古くからある小商人の生業をすこしお話ししようと思います。
「やってみたら?」「応援します」…そこにいていいのだ。
そもそも、私の脱サラは高邁な理想によるものではありませんでした。
なんとなく「いつか独立するかもしれないな、してみたいな」と断崖の下を見るように感じはじめていたところ、それこそ度重なる中年の危機に一気に背中を押されて「うわぁ」というような具合。
落下をまぬがれても、超低空の水平飛行はスピード感がすごいです。
簡単には落ち切らないくらい人生の谷は深いのかもしれませんが。
「独立することになりそうだ」「物売りの仕事しかないよな」と思いはじめると、無数の考えが頭をよぎりました。
「せっかくだから売れる、売れないではない、それ以前に感じていた好きか嫌いかも大事ではないのか?」
「いやいや、そうやって独立した人たちに沢山物を売ってきてどんな思いをさせてしまったか」
「でも良いものは良いし」
それまでに扱う機会のあった品物の数々を、作り手(供給してくれる方々)の顔とともに思い出しました。
それでも、独立そのものが一気に現実のこととなったのは、ご縁のあった仕入先様に「やってみたら?」「応援します」というお声を頂いたことが大きなきっかけでした。
先のブログで述べたような「営業のやつ」が独立するというと、お得意様を固めた上で、というのが常道のように感じられる方も多いかと思います。
ですが、考えてみれば商売仕入れが先に立つわけで、私の場合も、売り先をあれこれ悩むよりも「売ってこいよ」という仕入先様のご期待の方が背中を押してくれたとういうわけです。
売り先については…それこそ「営業のやつ」にはそれしかできる事がないわけですから、あまり悩むことはありませんでした。
仕入先様とお得意先様。
今、そのご恩に十分に報いる事が出来ているかといえば大変心もとなく、十分な販売もしきれないまま目先の所業に追われている日々が誠に申し訳ありません。
ここでお伝えしたかったのは、
「買わせてもらう事が出来なければ、売ることはできない」という当たり前の事。
「商売人の家系」といった育ちの方達には「何をばかな」というくらい当たり前のことかもしれませんが、
「売手と買手の間に立つことを許される」ということには、独立(すなわち退職)の不安の中で、自分で自分の居場所を見つける事が出来たというような安堵もあったということです。
こんな当たり前のことが新鮮だったのは、若い頃になんとなく就職してからこれまで、口に出すことはなかったけれど、結局のところずっと営業成績や社内での評価、昇給や昇進といったことばかりを考えて来たからだったのだと思います。
会社員でこういう当たり前のことを実感できている人がいるとすれば、その人は本当に素晴らしい感性を持っている人だろうと思います。
2022年12月吉日
店主拝